苦しいことに耐える強さ

人というのは元来苦しいことが嫌いである。心の中で苦しいことは出来るだけしたくない、楽なことを出来るだけやっていたいと思っているはずである。中には自分を高めるために苦しいことに自ら臨んでいく奇特な方もいるようだが、やはり深層心理では将来的な楽を想定して動いているのではないだろうか。まぁこれはあくまで推論に過ぎないのだが。

そんななんとも都合の良い人間様である私は、ちょっと前から自分で気をつけて直そうとしているのに直せないところがある。私だけのことなのかもしれないが、少しくらいは当てはまる人がいるのではないだろうか?


「自分では新しい知識を入れているつもりが、実質的にはすでに分かっていることを調べている。」


研究のために論文を読んだり、世の中にある便利なツールやいろんな人の考え方を見るためにネットサーフィンしたり、普段私のしている行動は頭のなかでは新しいものを調べているつもりになっているが、その調べた結果得られたものはちょっと言い回しの変わったすでに知っているものであることが多い。つまり時間をかけてやっていることはただの知っていることの再確認だけ。全く進歩なしといった状況だ。

これは一体何に起因するのか?それは先ほど述べた人の本性にあるのではないかと思う。たくさんの情報を仕入れる過程で、たいてい何かすぐには分からないことに遭遇する。分からないことを理解するにはエネルギーが必要であるため、妥協してなんとなく理解したつもりになってすっとばす。もちろんあいまいな理解で十分なことも多々あり、それに頭を悩ませ続けるのはあまりに非効率ということもある。しかし、筆者の考えを理解するのに必須な事もすっとばして、分かる所だけ読んで理解したつもりになり満足してしまうことがある。結果理解できたのはすらすら読める知っていることだけ。

以上のことに似たことは情報収集だけではなくスポーツや研究、仕事などもっと一般的に言えそうなのだが、自分の能力を高めるためには、楽なことだけでは不十分であり、時には苦しいことに耐える必要がある。苦しいことから逃げてばかりでは、結果遠回りをしてしまい、結果余計に苦しくなってしまう可能性がある。

人には苦しいことに耐える強さが必要なのだ。