家族愛、無条件の愛、育む愛

この1年間、身の回りで起きていることの影響で、愛ということについて考えるようになった。


自分で言うのも恥ずかしいが、俺は恵まれた家庭環境の下で育つことが出来たと思っている。それは金銭的な意味ではなく、家族の愛情を感じ続けることが出来たから。どんな時でも俺を愛してくれ、どんな時でも俺の幸せを願ってくれていたし、これからもそうだと思う。こう言うと本当にただ甘やかされたように聞こえるかもしれないが、悪いことをした時はしっかりと叱られていた。ただ、叱られようが褒められようがどんな時でも愛情を感じないことは無かった。まさに家族から与えられた愛情は、言葉通り無条件の愛だった。


幸か不幸か、こうして愛情に不自由なく生きてきた俺は、大学に入って女性とお付き合いをさせて頂くようになってから、無条件の愛と、育む愛を混同して考えていた。育む愛は、赤の他人と0から築き上げていくもので、努力しだいでそれは大きくもなれば、小さくもなる。付き合いたての頃は、二人の愛は熱く甘い恋愛感情にコーティングされ、少々の衝撃に耐えうる強度や柔軟性を持っている。しかし、時間の経過に従いコーティングは剥がれてくる。また次第に相手の存在は当然のものになり、相手が恋人で居てくれるありがたさを忘れがちになる。そんな気持ちだからといって、相手の事を幸せにしてあげようとする努力を怠れば、自分では気づかない内にこれまで育んできた二人の愛情は萎んでいく。


そんな失敗を体験して初めて、育む愛の持つ弱さ、脆さという性質を理解することが出来た。二人の愛情を長く維持していくには、互いが相手の愛を感じ続けている必要がある。そのためには、相手の欲求に答えるだけの受動的な愛情だけではなく、相手の事を想って、相手が喜んでくれるように努力する能動的な愛が必要。


こうして考えてみると、無条件の愛というのは親子間や兄弟間の愛情、育む愛というのは配偶者に対する愛情、また愛というのは家族愛を表していると考えられるのかもしれない。そして無条件の愛と、育む愛は、愛の部分集合であり、単に愛と言っても性質の異なる愛が存在していると考えられる。


こんな議論が万人に有意なことではないのは分かっている。これはあくまで、これから致命的な後悔をしないために学んだ俺の教訓。