善い事って?

今回の震災で善に関する議論はあちこちで起こったと思う。最近観た「しあわせの隠れ場所」という映画中でも、登場人物が自分は本当に善人なのかと葛藤する場面があった。善って何なんだろう。多くの人は人から善人だと思われたいと考えており、時には他人のために善い事をしようと考えていると思う。でも、自分が善い事だと思ってることは本当に善い事なんだろうかという、映画の登場人物と似た経験がある人は多いんじゃないだろうか。

ここで、純粋に相手のことを思ってした行為というのは、純粋な動機に基づいていると考えて良さそうだ。しかし、善い事をして得られる自己満が動機となる事も多々ある。自分のしたことが感謝されて得られる満足感というのは何物にも代え難い。場合によっては、感謝されてなくても満足してしまうような事もある。こういった動機を純粋でない動機と考える。では、純粋な動機から行ったことを善と考えるのが妥当なのだろうか?その結果相手が迷惑だったとしても?

ここで俺は、普段何か相手に迷惑をかけた時の言い訳でよく聞く、「悪気は無かった」という定型文を「悪」だと考えていることを思い出した。いや、「善ではない」と表現するべきか。結果的に相手に迷惑をかけてしまった場合、自分の意図に関わらず、その行為は両手放しの賞賛を受けないだろう。「善ではない」という発想がしっくり来るということは、どうやら俺の中で「善」というのは白か黒かの二元論ではないようだ。白と黒の間の灰色も一緒に考える必要ががありそうだ。

ここで、動機が(1)純粋か(2)否か。そして、結果的に(ア)感謝されたか(イ)否か。 という場合分けで、2×2=4通りについて極めて主観的な論理展開をする。(1)ー(ア)は白、(1)ー(イ)は灰色で、(2)ー(イ)は黒と考えられる。では、(2)ー(ア)はどうだろう?自然に考えたら灰色となるのかもしれないが、俺はこれも白だと思う。動機がどうあれ、結果的に相手が喜んでくれたらそれは善行として認めて良いんじゃないかな。

他の人のために何かをしてあげようと考えたとき、動機が不純だからという理由で思いとどまる事が何度となくあった。しかし、善い事ってなんだろうとじっくり考えてみたら、動機なんて何でも良いから、相手が本当にそれで喜ぶかどうかだけが大事なんじゃないかな、という自分なりの結論に至った。これは自分勝手でデタラメな意見かもしれないけど、みなさんの「善い事ってどんなこと?」という問いに対する自分なりの答えはどんな感じだろうか。