精神的生殖欲

俺は自分の価値観をどうしてこんなにブログでさらけ出したがるのだろうということを最近考えていた。先輩や友人と議論を交わしていくうちに、「自己完結出来ない自分」という存在に気づいた。自分が良ければ良いという発想が出来ない、つまり、常に誰かの共感を求めている。もしくは飢えているとも言えるかもしれない。しかし、これは俺だけの話ではないということは知っている。友達と誰かの愚痴を言い合ったり、あることに対する価値観を議論し合うような時に、相手から共感や理解をしてもらったときの蜜の味は誰でも知っているはず。誰しもあの味を求めて人に話を持ちかけることが少なくないはずなんだよなー。

みたいなこと考えてて、これとは関係なく読んでた本の中で、プラトンの「饗宴」という本の内容の一部が紹介されてて、これと関係のある記述があった。以下、多少の自分なりの改変を交えつつその話のあらすじを載せる。


「饗宴」の中ではエロス(愛)に関することが書かれている。この話によると、エロスは人間と神様の間に存在する霊の一種で、エロスが人間に取り憑くことで人間は何かしらの衝動を起こすようになる。その衝動のうちで最初に起きる衝動というのは「不死への欲求」である。しかし、まぁ不死なんて神様じゃないんだから無理な訳で、次に人間は自分のコピーを残す事に対する欲求(生殖欲求)が生まれるようになる。これには肉体的生殖欲、精神的生殖欲があり、肉体的生殖欲の現れとして子供や孫が自分に似ている事に対する喜び、精神的生殖欲の現れとして人が本を書いたり、功名心を持ったりすることが挙げられる。


やっぱそんなもんなんかもねー。ってね。

俺が書いてるブログなんか、知人の中でもほんの一握りの人たちが読んでくれてるだけだから気軽にポンポン書けちゃうわけで、自分の価値観を表明した本を世界に発信してる人達と同じ土俵で考えるのはあれかもしれないが、人間の本性としてそういうのがあるのかもしれない。エロスの話はあくまで神話だし、信じるか信じないかは人次第なんだが、俺はこの話は世の中に存在する傾向を割と説明出来ているような気がした。自分の行為を正当化するために都合が良いというくらいかもしれないが。

という訳でみなさん。このブログは俺の生殖欲の現れのようですが、これからも時々更新していくんで、キモがらずにたまには読んであげて下さいね(笑)